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家族があなたを創った。そして、あなたも家族を創っている——ヨガが伝える「クラ」という生き方
こんにちは、Kenです。 「今の自分は、自分の意思でここまで生きてきたのか。それとも、家族から受け継いだ考え方や癖から、結局抜け出せていないだけなのか。」そんな矛盾した感覚を抱いたことはないでしょうか。 この問いは、どちらか一方に決めようとすると、かえって苦しくなります。「全部自分で選んできた」と言い切るには、家族から受け取ったものがあまりに大きい。かといって「全部家族や環境のせいだ」としてしまうと、今度は自分の人生への手応えがなくなってしまいます。 私たちは「世界をつくる人」なのか、「世界につくられた人」なのか ヨガの伝統には、この矛盾そのものを「どちらか一方が正しい」と裁かずに、両方とも真実として抱えていく、という考え方があります。 私たちは、世界をそのまま経験しているわけではありません。正確には、「自分が世界をどう経験しているか」を経験しています。この意味で、私たちは自分の経験の作り手であり、自分の世界の創造者だと言えます。 けれど同時に、その「自分自身の経験」そのものが、すでに作られたものでもあります。私たちがどう感じ、どう考え、どう反応

Ken
10月2日読了時間: 3分


太陽礼拝は、本当は誰への捧げものだったのか——ヴェーダの女神アディティと、天の息子たち
こんにちは、Kenです。 太陽礼拝、スーリヤ・ナマスカーラ。ヨガのクラスで、「太陽への挨拶」として教わったことがある方も多いのではないでしょうか。 でも、なぜ太陽なのでしょうか。そして、地に額づき、天へ伸び上がり、また地に戻る——あの上下運動には、いったいどんな意味が込められているのでしょうか。この問いに向き合うには、ヨガという実践の、いちばん古い層にまでさかのぼる必要があります。 ヴェーダの世界は、もともと「天」を見上げる世界だった ヨガの歴史をたどるとき、避けて通れない大きなテーマのひとつが「女神の進化」です。私たちが手にすることのできる最も古い資料——ヴェーダの資料——から学べる大切なことのひとつは、その伝統がもともと「天空の神々」を中心に据えたものだった、という事実です。 長い移動の末にインドへとたどり着き、適応し、同化し、定住していった古代の牧畜の民にとって、空はまさに広大な知の宝庫であり、神聖なものの源泉でした。移ろい続ける大地に対して、変わらぬ指針となったのは空——彼らにとって、空こそが地図だったのです。神々はその空から立ち現れる存

Ken
9月30日読了時間: 3分


四住期(アーシュラマ)とは?「人生の四段階」という説明が見落としているもの
こんにちは、Kenです。 ヨガやインド哲学に触れていると、一度は「四住期(しじゅうき)」という言葉に出会います。 人生を四つの時期に分けて考える、という説明です。学ぶ時期。家庭を築いて働く時期。仕事や家から離れて、内面を深める時期。そして最後に、すべてを手放して生きる時期。 とてもきれいな整理です。「いまの自分は、何段階目だろう」と考えたくなります。定年後は森へ入る、というイメージから、老後の生き方のヒントとして紹介されることもあります。 でも、少しだけ立ち止まってみてください。 人生は本当に、階段を一段ずつ上るように進むものだったのでしょうか。 実は、この「四つの段階」という理解そのものが、古いインドの考え方とは少しずれているのかもしれません。そう読み直すことができます。この記事では、その読み直しをゆっくりたどっていきます。 四住期は、ひとつの大きな言葉の「一部」だった 四住期は、サンスクリット語で「アーシュラマ(āśrama)」と言います。 ところが、この言葉が古い文献に出てくるとき、単独で登場することは少ないのです。多くの場合、ある長い言葉

Ken
9月24日読了時間: 5分


インドの創造神話はなぜ矛盾したまま残っているのか——ヨガという言葉の本来の意味
こんにちは、Kenです。 「世界はヨガによって創られた」。こう言われたら、あなたはどう思うでしょうか。ヨガは、世界が始まったあとに人間が発明した練習法のはずです。順番が逆に聞こえます。 奇妙に聞こえて当然です。実はこれは、古代インドの人たちが、長い時間をかけて考え続けてきた問いです。そしてその答えにたどり着く道のりは、多くの人が思っている「ヨガ」のイメージとは、かなり違う場所を通ります。 「答えはひとつのはず」という前提に従わない伝統 「世界はどうやって始まったのか」と聞かれたら、多くの場合、私たちは「正しい説明はひとつだけのはずだ」と考えます。科学的に正しいか、宗教的に正しいか。いずれにしても、答えはひとつに絞られるべきだ、と。 ところが、古代インドの伝統は、この前提に従っていません。世界がどう始まったかを説明する物語は、ひとつではありません。しかも、それらはまったく違う筋書きで、互いに矛盾しています。 普通なら、矛盾した話がふたつあれば、どちらかが「間違い」として消されるはずです。でも古代インドでは、そうなりませんでした。矛盾したまま、両方と

Ken
9月23日読了時間: 3分


ケーナ・ウパニシャッドとは?「私を動かしているのは誰か」という古代の問い
こんにちは、Kenです。 ヨガのポーズを深く呼吸しながら続けていると、ふと「なぜ今、こんなことを考えているのだろう」「そもそも、この呼吸をしているのは誰なのだろう」という、練習そのものとは関係のない感覚に襲われることがあります。瞑想中にも、似たようなことが起こります。「呼吸に意識を向けているのは、一体誰なのか」——答えようとすると、答えている自分がまた気になってくる、あの循環するような感覚です。 古代インドで編まれたウパニシャッドという一群のテキストの中に、この感覚をそのまま入口にして書かれた、とても短い教えがあります。それが「ケーナ・ウパニシャッド(Kena Upaniṣad)」です。 ケーナ・ウパニシャッドの基本 全体でわずか4つの章しかない、非常にコンパクトなテキストです。その名前は、テキストの最初の一語「ケーナ(kena)」からとられています。「ウパニシャッド(upaniṣad)」という言葉自体、もともとは「近くに座る」という意味を持っています。師のそばに弟子が近く座り、対話に入っていく——そういう情景をイメージするとよいかもしれません。

Ken
9月16日読了時間: 4分


「グル」とは何か——ヨガ哲学における師弟関係と崇敬の意味
こんにちは、Kenです。 ヨガのクラスで、先生に向かって手を合わせたことがある方は多いと思います。「ナマステ」と唱え、時には深くお辞儀をする。この所作は、いったい何を意味しているのでしょうか。 合掌・ナマステに込められた本当の意味 両手を合わせるこの所作は、アンジャリ・ムドラ(añjali mudra)と呼ばれます。añjaliという言葉は、「両手のひらを合わせ、窪ませて作った形」そのものを指し、敬礼・崇敬の身振り一般を意味します。語根の「añj」には、「塗る、清める、称える」という意味合いがあるとされています。 この所作にはたいてい、「ナマステ」という言葉が添えられます。ナマス(namas)は、「捧げ物をする、崇敬する、称賛する」ことを意味する語根に由来し、そこには「尊敬する、鼓舞する、熱望する」という意味合いも含まれています。 つまり、合掌もナマステも、もともとは「敬意を示す」ための所作・言葉です。けれど、この所作は時に、額を地面につけるほど深いお辞儀へと発展していきます。敬意を示すはずのこの所作が、なぜ時として「服従」のようにも見えてしまう

Ken
9月12日読了時間: 3分


ヨガの「倫理」はどこから来たのか——ダルマとスヴァダルマの意味
こんにちは、Kenです。 ヨガのクラスでは、非暴力(アヒムサ)や正直(サティヤ)といった「ヤマ・ニヤマ」の徳目リストで、倫理について学ぶことが多いと思います。 けれど、そもそもヨガの伝統は、なぜ、どうやって「正しさ」というものを考えてきたのでしょうか。実はこの土台は一つではありません。今日は、その出発点にある「ダルマ」という考え方を中心に、ヨガ的な倫理観の起源をたどってみます。 「倫理」は、導かれる場所だった——nītiという言葉 「倫理」を表す古い言葉の一つに、サンスクリット語の「ニーティ(nīti)」があります。「導く」を意味する動詞語根「ニー(nī)」に由来し、「導き」「行い」、そして「倫理」そのものを意味する言葉です。 同じ語根から生まれた「ニータ(nīta)」——「導かれた」を意味する過去分詞——と合わせて見ると、この言葉には「あなたを導くもの」であると同時に「あなたが導かれてたどり着いた場所」という、二重の意味が最初から含まれていることがわかります。 つまり倫理とは、あなた個人がゼロから作り上げるものではなく、あなたよりも大きな何かに

Ken
9月5日読了時間: 3分


グナとは?サットヴァ・ラジャス・タマス——ヨガ哲学が語る心と体の3つの力
ヨガのクラスでよく聞く「グナのバランスを取る」という言葉。その土台にあるサーンキヤ哲学と、サットヴァ・ラジャス・タマスという3つの力の意味を、基本からわかりやすく解説します。

Ken
8月24日読了時間: 4分
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