完全なシヴァは、なぜ負けたのか——完全さの中の「余り」と、親密さという贈り物


こんにちは、Kenです。
象の頭をした神様、ガネーシャ。インドの神様のなかでも、とくにたくさんの人に知られていて、ヨガのクラスで目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
ガネーシャは、何かを始める前に呼ばれる神様です。勉強をするときも、新しいことに挑戦するときも、まずガネーシャを呼ぶ。5〜6世紀ごろには、すでに、価値のある何かを始めるときにガネーシャが呼ばれていました。
ガネーシャは、なぜ「始まりの神様」と呼ばれるのか
ガネーシャは、始まりの神様であり、敷居の神様であり、そして障害の神様です。敷居とは、部屋と部屋の境目、「こちら」と「あちら」のあいだの場所のこと。ガネーシャは、いつもその境目に座っています。
「始まり」と聞くと、私たちは、何もない白紙の状態から出発することを思い浮かべます。けれど、実際には、白紙から何かを始めることは、まずありません。仕事も、家族も、これまでの経験も、うまくいったことも、いかなかったことも、全部抱えたまま、私たちは何かを始めます。つまり、私たちは、いつも「何かの途中」にいるのです。
そう考えると、ガネーシャの教える「始まり」は、条件が全部整ってから出発することではなく、いま自分がいる途中から、どこを始まりにするかを自分で選ぶことだと読むことができます。
ガネーシャは、障害を「取り除く」だけでなく、「置く」神様でもある
ガネーシャには、もうひとつ、不思議な顔があります。障害を取り除く神様であると同時に、障害を「置く」神様でもある、というものです。
靴の中に小石が入っていたら、私たちは立ち止まって、それを取り出さずにはいられません。小石がなかったら、足元を見直すこともなかったかもしれない。「何かが邪魔をしている」と感じるから、私たちは動き、成長します。障害は、ただの邪魔ではなく、人生の方向を変えるきっかけにもなります。
しかし、ここにはもう一段深い問いがあります
では、そんなガネーシャは、どのようにして生まれたのでしょうか。物語は、ある夫婦の話から始まります。シヴァとパールヴァティ。シヴァは、誰かに満たしてもらわなくても、ひとりで、完全に存在していられる、「ひとりで足りている」神様です。
その、ひとりで完全なはずのシヴァが、サイコロ遊びに負けてしまう。なぜ、完全な神様が、負けたのでしょうか。そして、その負けが、なぜガネーシャの誕生につながっていくのでしょうか。
記事本編では、この「負け」の意味から、ガネーシャが生まれ、戸口に立つまでの物語を、順を追って丁寧に読み解いています。
ではまた。 Ken




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